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レーシックのポイント

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美しいキルトや歌は、少し目先の変わった文化として一部の人には喜ばれるかもしれないが、日本の感染者はどうだろう。
この運動のことを「感染者、が珍しくないアメリカで生まれたお祭りで、エイズをあまり知らない日本人が楽しんでいる」というような、うがった見方をされるかもしれない。
それに、エイズへの市民の関心は薄く、東京での呼びかけてすら、これっぽっちの人数しか集まらない。
各地の実行委員会は人と資金を集められるのだろうか。
展示しても見にくる人がどれくらいいるだろうか。
計画倒れになることはないだろうか。
これまでの経緯を思い起こしてみても、不安材料は尽きなかった。
ところがこの懸念は、取材をしていくうちにどんどん消えていった。
キルトが来日する一ヵ月ほど前、各地にてきた実行委員会のロケを始めて、「これはいける」と思った。
中心になって動いている人たちが、じつに素敵な気持ちのよい人たちで、地元の血友病の感染者も少しずつ準備に加わりだしたからである。
そしてキルトが京都で初めて梱包を解かれた時、「これは、予想以上のすごさだ」と思った。
Sさんが何故あれほどのめりこんでいたのかが、よくわかった。
しかも日本でのメモリアルキルトの運動は、Sさんたちが考えていたよりも、はるかにドラマチックな展開をすることになった。
一枚の布に、これほどの力があるいは、思ってもみなかった。
Sさんの自宅兼アトリエは、京都府宇治市の高台にあった。
背後に竹林を背負った建物で、「風工房」という看板が出ていた。
一階はカランと広い工作室のような染色用のスタジオと畳の部屋が二つ。
畳の部屋の方は、全国からぞくぞくと集まってくるメモリアルキルトの裏地や、展覧会のパンフレットなどがあって、足の踏み場もない。
染色家としてのSさんは、布地をキャンパスにして自由に染色していく前衛的な作風の人で、力強い作品を作っているこれらキルト関係に押されて、部屋の隅に追いやられていた。
壁の一面に三月から五月までの日程表が貼られ、電話とファックスがフル回転している。
Sさん一家には受験期の息子がいるというのに、夫婦でキルト一色の暮らしに突入していた。
音楽、美術、工芸にたずさわる友人たちも、次と巻きこまれた。
キルト展、が始まるまで、工房には大勢の人と布が入り乱れることになった。
この京都の実行委員会の準備の模様は、進捗状況に応じて撮影したが、いつもめっぽう陽気で楽しい。
それに加えて、失敗は許されない、何としても成功させよう、という意気ごみと緊張感があった。
中学か高校時代の学園祭前夜のノリだった。
カンパを集めてはいたが、費用は持ち出しも多かった。
働き盛りの多忙な人たちが、週末や仕事を終えた夜、集まってきては作業に打ち込んだ。
そのあいまにSさんがしみじみと、メモリアルキルトとの出会い、エイズとの出会いを話してくれたことがあった。
三年前の一九八八年、ニューヨークで作品展をした時に、初めてキルトを見たと言う。
「人が泣いたり抱き合ったり叫んだりしていて、人間的なものを感じました。
その中心に布がある。
最初私は、キルトを囲む人に圧倒されていましたガンのうちにキルトそのものにジワジワと魅きつけられていったんです。
コミュニケーションの素材として布がある、と思いました。
デザインや縫い方は稚拙でも、これを作ろうとする根拠が深く、思いやりにあふれている。
一人の人の人生が布を通して伝わってくるのです。
エイズはただこわい病気で、何千人が死亡したとかという統計の数字でしかなかったのが、じつはこういう一人ひとりの命が失われていくということなのだ、とわかってきました。
深く胸を打たれました」一緒に仕事をしていたスタッフの一人が、友人をエイズで亡くしたこともあって、Sさんはキルトから受けたインスピレーションで真夜中に布を染めた。
結局、ニューヨークでは、エイズに向けての作品展に切り替えることになった。
帰国してから、日本のHIV感染者やボランティアグループと接触することになった。
だが、行政面でも医療面でもエイズの現場はたいへんなことばかりで、日本にこそあのメモリアルキルトが必要ではないかと思った。
感動をもってエイズに触れる機会がほしいと思った。
それならば、キルトを日本に呼び寄せよう。
「コミュニケーションそのものが病んでいるのだと思います。
今の日本の状況では、感染者と非感染者はなかなか語りあうことができない。
ところが、感染者が閉じていた心を開いてくれた時、コミュニケーションがふっと癒される気がしました。
そのへんの感動……ふっと風が流れていく。
この感動は大きいですね。
感染者の人たちが深く関わることで、メモリアルキルトの運動は深まってきました。
感染者というと、悲惨なことばかり頭に描いていたんですよ。
でも、彼らは決してめげていない。
強くて明るくて、逆にこちらが元気にされてしまう。
辛いいころは私たちに見せないのだろうし、家族のこととか、いろいろ悩みはあるはずなのに、強い人が多いのにはびっくりしますよね」この工房には、気持ちのいい風が吹いていた。
キルトに触れて、エイズに触れて、人生が変わってしまった人がここにいた。
ちょうどこの日は、I.Yさんたち、関西と山形の血友病患者や家族が七、八人、工房を訪ねて来た。
三月半ばの大雨の日たった。
I.Yさんたちは京都の実行委員会の作業に加わって、「三千人キルト」集めをしていた。
「三千人キルト」とは、三〇センチ四方で赤自青の三色の布地を、一枚八〇〇円で買ってもらい、その人にメッセージを書いてもらって、三千枚つなぎあわせるもの。
キルト展の資金源であり、できあがると一五×一八メートルの巨大なパッチワークになる。
モザイク模様ができあがると、青い帽子をかぶった「リスン君」という男の子が耳をすましている絵になるはずだった。
I.Yさんたちは感染者の仲間やHIV訴訟の弁護団、エイズ診療の医師たち、厚生省の役人、国会議員など、会う人ごとに参加を呼びかけて、一〇○枚以上集めた。
「布を持ちあわせていない時は、コンビニでハンカチを買って間にあわせましたよ」この日、I.Yさんたちは工房で布を染める共同作業をすることになっていた。
染めた布は小さく切られて、メモリアルキルトの裏地になるはずだった。
この時点では、日本人のメモリアルキルトは、まだ一枚も作られていなかった。
日本ではエイズで亡くなった人の名前をそのまま出すことは不可能に近い。
それならいっそ、白い木綿の布だけで一人の人の死を追悼するのはどうか、というアイディアが生まれた。
これは「ホワイトキルト」と呼ばれるようになった。
キルト展に間にあうかどうかわからないが、何枚かが、遺族や友人たちの手に渡っていた。
Sさんの染めの制作現場は、全身を使うスポーツに似ている。
幅丁三メーいる、長さ二〇メートルの白い布の両側をひっぱって、空間にピンと張り、各人が大きいハケで思い思いの色の染料を塗りまくる。
誰かが塗った赤の上に、他の人が緑や藍を塗り重ねる。
ハケを持って全力疾走し、黄色の太い線を一文字に描く者がいれば、黒い塗料を上からホクホクと垂らしている人、いたるところに「俺の証拠や」と言って自分の手型を押している人もいる。
I.Yさんは、「親父が表具師で、一時手伝っていたこともあるから、ハケの使い方がサマになっているでしょ」と、はしゃいでいる。
I.Yさんは、この頃はまだHIV感染者であることを公表していなかったが、実行委員会のメンバーには、自分の感染や裁判のこと、各地の感染者がおかれている苦しい状況について語り、エイズの理解者を増やしていた。

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